2014年4月30日水曜日

エゾシカとの未来~14万頭の命を奪うと言うこと~ (平成26年4月 番外編)

僕は動物園に入った年から、
保護動物として運び込まれるエゾシカと関わり続けてきました。
誤認保護され持ち込まれたエゾシカの子を親代わりになり育て、
交通事故、列車事故で手当のしようのない状況で持ち込まれたエゾシカを
安楽殺したりしてきました。

そして保護されて命をつなげた個体を飼育し展示してきました。
飼育をとおして、エゾシカのすばらしさや気高さを感じ続けてきました。
エゾシカは間違いなく北海道を象徴する、すばらしい動物です。

そのエゾシカが害獣として扱われるようになり、
北海道の豊かさそのもの、自然のバランスそのものを
崩壊させてしまうかもしれない存在になってしまいました。
現在北海道では年間十数万頭のエゾシカを
駆除せざるを得なくなってしまいました。

その中で一次産業の被害額、交通事故の件数、駆除の実績、
駆除の方法、有効利用等々どこか無機質な印象を受ける報道が多く、
将来エゾシカとどう共に暮らしていくのかという
根本的な目指すものがない議論が多いように感じていました。

14万頭。
ただ生きようとしているエゾシカの側に立って見ると
いたたまれない一面を感じてしまいます。
エゾシカを飼育して見てもらっている以上、
他人事であってはいけないとの思いから
狩猟を始めようと決意しました。
共存の未来のための狩猟、駆除でありたい。
そのためにはとにかく現場に身を置くことからなのだろうと…

結果として、まだ昨年の一頭しか捕れていません。
が、彼らの暮らす場所に足を踏み入み、そこで暮らす命を奪うということは、
やはりためらいと撃たなければと言う使命感とが入り交じりました。

生き物を狙うことは、動物園で麻酔銃や吹き矢を使っていたので
変な自信があったのですが、その結果が明らかに違うことは明白です。
スコープに映るエゾシカは、明らかな恐怖ではなく、
本能からとにかくこの場を去らなければと言った
緊迫感のない穏やかな表情をしていました。

シカを捕らなければ生きていけないわけでもない、
実害を受けているわけでもない自分が今更ながらなぜ?と問い直していました。
狩猟者として向き合っているのか?駆除者として向き合っているのか?
その個体を見ると1分の1の命、全体で見ると14万分の1の命…
まだまだ初心者です。

生態系の保全のための管理、コントロールの考えから
年間で14万の命を奪わなければいけないことは、たぶん正解なのです。
放置しては自然そのものも我々の暮らしも基盤から崩壊してしまいます。
ただ個々の命の終わり方に正解はありません。
なんだか日本人だなと思ってしまいました。

ある一定数を駆除しても、また新たな命が誕生し続けます。
じわじわと数を減らしていくのではなく、自然の生態系が保たれ、
農林業の被害も我慢できるレベルまでできるだけ短期的に数を減らす。
その方が奪う命の数は圧倒的に少ないでしょう。
その後は現在のように産業廃棄物として処理せざるを得ない「駆除数」ではなく、
すべてを有効利用できるくらいの
「狩猟数」でコントロールできるのではないでしょうか?